安政午秋頃痢流行記

金屯道人(仮名 垣魯文)著、安政五(一八五八)年
(長崎大学附属図書館医学分館所蔵)

安政五(一八五八)年、長崎から江戸まで広まったコレラ禍の被害状況や奇談、まじない等を記した資料。写真は長崎出島に渡来したオランダ人が、奉公所へ提出した文書の和訳の冒頭部分です。「この二、三日のうちに、出島も市中も、突然下痢になり、後に嘔吐する者がありました。このような症状の者が、既に昨日十二日には一時に三十人に上りました。はたまた、アメリカ蒸気機関船ミシシッピー号においても、この症状の者が多数でており、~中略~この病気は、外国でも最近頻繁に発生しております。」等が記されており、日本だけでなく世界で流行している病気であることは明らかだと報告しています。名前の記載から、報告者はポンぺと考えられています。

安政午秋頃
痢流行記
とは
安政午秋頃痢流行記

金屯道人(仮名 垣魯文)著、安政五(一八五八)年
(長崎大学附属図書館医学分館所蔵)

安政五(一八五八)年、長崎から江戸まで広まったコレラ禍の被害状況や奇談、まじない等を記した資料。写真は長崎出島に渡来したオランダ人が、奉公所へ提出した文書の和訳の冒頭部分です。「この二、三日のうちに、出島も市中も、突然下痢になり、後に嘔吐する者がありました。このような症状の者が、既に昨日十二日には一時に三十人に上りました。はたまた、アメリカ蒸気機関船ミシシッピー号においても、この症状の者が多数でており、~中略~この病気は、外国でも最近頻繁に発生しております。」等が記されており、日本だけでなく世界で流行している病気であることは明らかだと報告しています。名前の記載から、報告者はポンぺと考えられています。

2023.07.03 #医学部

長崎大学は
『挑戦』を続けています。

河野 茂
河野 茂
長崎大学 学長

長崎大学は『挑戦』を続けています。
この挑戦は、今、大きく評価されています。
2023年5月、長崎市で開催されたG7長崎保健大臣会合で、加藤厚生労働大臣はこのように切り出しました。

「長崎市は熱帯医学研究所を有する長崎大学を中心に、世界の医療や公衆衛生分野の発展に貢献をしてきた街」。

確かに、2020年初頭から広がった新型コロナウイルスのパンデミックでは、本学出身の医療系研究者や臨床家が、全国的に活躍し、毎日のように新聞やテレビで、情報を発信し続けました。
未知の感染症に対する挑戦的な勇気ある行動でした。

医療系の教職員だけではありません。
コロナ禍では、ビッグデータを利用した研究や実践、あらたな教育方法へのトライ、海外の人々とのコミュニケーションの展開等、全学部を挙げて挑戦してきました。

長崎大学が『挑戦』を続ける、その背景には、開学の創基者であるオランダ軍医のポンぺが、幕末の長崎でコレラや天然痘等の感染症に果敢に挑んだ歴史の源があるからかもしれません。
世界で唯一の被爆した医科大学として多くの犠牲を伴いながらも復興した歴史があるからかもしれません。
また、戦後国内で感染症研究施設が次々に閉鎖され、研究者が激減した際も長崎大学では愚直に研究を続けました。
私は思っています。
長崎大学人は今後も、どんな困難にも立ち向かっていくのだろう、と。

そして、皆さんは、知っています。
感染症の予防や対策は医療系だけでなく、行政の力や、データを解析する力、さらに、経済との両立、学校教育の遂行…。
つまり、10学部を持つ本学の総合的な力を今後も発揮することが望まれています。

今号では、長崎大学のこれまでの感染症対応を経て、今後の取り組みに至るまでを特集します。
私たちの『挑戦』を共有していただき、将来、一緒に行動したいと思ってもらえれば幸いです。

鎖国時代、対外貿易の拠点だった長崎は、さまざまな輸入品、文化に加え、
ヨーロッパ諸国の先進的な医学研究の技術等が持ち込まれ、近代西洋医学教育の礎の地になっていきます。
一方、海路を通じた人々の往来は、招かれざる未知の感染症の広がりにもつながりました。
今もなお繰り返される感染症の猛威と人類との闘い。
長崎は闘いの最前線となり、その歴史は、長崎大学の感染症研究の歴史そのものと言えるでしょう。
そして気概溢れる研究者や医師たちの存在なくしては、長崎大学の今も未来も語ることはできません。
今号では、長崎大学における感染症研究の歴史を振り返ります。

1
感染症は克服された果たしてそうだろうか。

コレラは明治18(1885)年にも大流行。同年発行の地図に、コレラにより死亡した人の数と、全治した人の数を書き込んだ『長崎港内全図』(長崎大学附属図書館医学分館所蔵)。

1942年、長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)に東亜風土病研究所が設置され、中国大陸におけるコレラ、チフス、赤痢などの研究が始まりました。
それが、戦後には風土病研究所に改称され、主に九州の風土病の調査研究が行われていきます。
また、まだ米国の統治下にあった沖縄では、フィラリア症や肺吸虫症などの調査や集団検診法の指導にもあたりました。
さらに1960年代初頭には、五島列島をはじめとする長崎県内で大流行したバンクロフト糸状虫症(※1)の撲滅にも貢献するなど、長崎大学の感染症研究者や医師たちは、広く現地に足を運び、目覚ましい成果を挙げます。
そしてこのような研究者や医師たちの奮闘と、国内における衛生環境の改善、抗生物質の開発などが進んだ結果、1960年代には国内の風土病(感染症)は克服されたと言われるまでになったのです。
しかし、それは皮肉にも風土病研究所の存続を脅かす理由にもなりました。

感染症は克服された――。はたして本当にそうだったのでしょうか。

(※1) バンクロフト糸状虫症:蚊が媒介し人間のリンパ系に寄生するフィラリア症。

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町ごとに赤丸で死者数(822)、黒丸で全治者数(455)を記しています。致命率は約64%でした。

2
地に足を着けた現場の仕事にこそ意義がある。

タンザニア国キオンボニ島における片峰大助隊長と現地住民。(1965年8月10日)

1964年、風土病研究所講師の林薫氏(のちに教授)は京都大学アフリカ学術調査隊の一員として東アフリカへ調査に赴きました。
帰国した林氏から、感染症が今もアフリカの人々の健康を脅かし、最大の死因となっているとの報告を受けた同研究所の片峰大助教授らは、自ら調達した資金で独自の調査隊を翌1965年東アフリカへ派遣することを決意。
そして1967年には、世界の熱帯医学研究の一翼を担うべく、熱帯医学研究所(以下、熱研)と組織を改め、活動のフィールドをフィリピンやタイなど東南アジアにも広げていったのです。

同じ頃、医学部も政府の要請を受け、ベトナム戦争中のサイゴン病院へ医療班を派遣します。
その後、海外技術協力事業団(現在のJICA)の要請でケニア・リフトバレー州立病院での医療協力を開始。
1966年に開始したプロジェクトは、1975年まで継続され、活動の一員だった柴田紘一郎氏(外科医)が、さだまさし氏の楽曲『風に立つライオン』のモデルになったことでも知られています。

独立行政法人長崎市立病院機構の片峰茂理事長は、基礎医学の領域で長崎大学の感染症研究に貢献された人物の一人。
父の大助氏とは歩んだ道が異なりますが、「熱研とは常に並走してきた」と振り返ります。
片峰理事長のお話です。

「寄生虫の専門家だった父が、家にいた記憶がほとんどありません。五島、沖縄、鹿児島など、常にフィールドに出掛けていたからです。その結果、日本から寄生虫はほとんど消えました。次に何をやるのか、当然その議論はあったはずです。長崎大学は歴史的背景を礎に、進むべき道を模索していたと思います。父を含め熱研の研究者は、現場に足を運び寝泊まりをしながら仕事(研究)をすることに意義を感じていましたから、林先生にアフリカのフィールドの話を聞いた時、“ここだ”と直感したのでしょう。現場に出向いて、研究や医療支援を展開するという長崎大学の強みを最大限発揮できると考えたのではないでしょうか」。

国内の他大学では感染症研究が縮小される中、国境を越えて感染症が流入してきた「出島」以来の歴史を知る彼らは、日本において感染症を抑え込んだとしても、それが感染症を克服したことにはならないことをよく理解していたのではないでしょうか。
20世紀後半におけるエイズやBSE(狂牛病)等の多くの新興感染症の出現は、その理解の正しさを証明することになりました。
片峰理事長のお話は続きます。

「一方、忘れてはならないのが、臨床医学と基礎研究で世界的業績をあげてきた医学部や附属病院の存在です。長崎の離島地域がいくつかの病原ウイルスの濃厚流行地であったことが理由の一つです。その代表が1980年代初期に発見されたHTLV-I(※2)です。HTLV-Iは成人T細胞白血病(ATL)を起こすウイルスで、当時、長崎県は世界最大の流行地域の一つでした。医学部は感染経路を解明するとともに感染予防対策事業を1987年以来35年以上継続し、その結果近い将来、ATLはこの地域から撲滅される日が来るでしょう」。

21世紀に入ってからもエボラ出血熱、ニパウイルス感染症、ジカ熱、SARS、MARSなどの新興感染症が世界で猛威をふるいました。そんな中、長崎大学は2005年から2006年にかけて、ナイロビ(ケニア)とハノイ(ベトナム)に常駐型海外拠点を設置します。このように流行の現場に固執し続け実績を着実に重ね、長崎大学の感染症研究は、世界にフィールドを広げながら継続発展をしていったのです。

※2 HTLV-I:主要な感染経路が母乳であることを突き止めた長崎大学医学部は、妊婦の抗体検査を実施。感染者の約9割が断乳に同意する(推定)。ハードルが高い感染予防対策が実現に至ったのは、長崎県や日本母性保護産婦人科医協会長崎県支部の協力が大きい。

3
オンリーワンから世界トップレベルへ。

新型コロナウイルスによる世界規模のパンデミックにおいても、河野学長の指揮の下、長崎大学は県の対策調整会議を主導し、クルーズ船のクラスター対応などに尽力しました。
常に現場に軸足を置き、現場での活動を第一にする姿勢は、変わらず今も受け継がれていることを示したのでした。

そして、新型コロナの課題や教訓から、感染症研究をさらに推し進めるべく、2022年には「長崎大学感染症研究出島特区」を新設。特区の名のもと、感染症研究を精力的に推進する5つの部局が集結する新体制が整えられようとしています。特区長を務める、森田公一教授に展望を聞きました。

「長崎大学には熱帯医学研究所、高度感染症研究センター、熱帯医学・グローバルヘルス研究科、医歯薬学総合研究科、大学病院の各部局に、合わせて100人以上の感染症の専門家が在籍しています。関連する他部局の教室を含めれば、もっと多いでしょう。国内にはこのような大学は他にありません。まさにオンリーワンなんですね。しかしこれまでは、それぞれが独立した部局として動いていました。過去の経験から、感染症研究にはスピードが問われます。そもそも感染症の広がり自体、航空機の発達でより早くなりました。パンデミックへの備えを考えた時、これらの組織が有機的に連携し一斉に動き出す必要があります。そうすることで短期間に成果が出せるのです。今回のコロナ禍では、特に診断の面でこれまでの研究の蓄積がスピーディな動きにつながりました。今後はこの特区の機能を活かし、治療薬やワクチン開発の面で、成果を出したいと考えています」。

広い海原の先に未来を見据えた先人たちのように、世界トップレベルの感染症研究を目指す長崎大学。
新たな航海はまだ始まったばかりです。

参考文献 『熱研75年の歩み 長崎大学熱帯医学研究所創立75周年記念』(長崎大学熱帯医学研究所創立75周年記念事業実行委員会発行)、『長崎大学医学部創立150周年記念誌』(長崎大学医学部創立150周年記念会編集・発行)
[インタビュー]

長崎大学が挑んだ
新型コロナとの
最初の4カ月間の闘い

泉川 公一
泉川 公一 教授
副学長(新型コロナウイルス感染症対策担当)
2020年5月31日、長崎港をあとにするコスタ・アトランティカ号。(写真提供:長崎新聞社)

初期の段階から新型コロナウイルス感染症の対策にあたった長崎大学。
2020年1月、中国武漢に滞在中だった邦人の帰国に際して、厚生労働省から支援要請が入ったことが発端となりました。
当時、千葉県の帰国者用の宿泊施設へ向かった泉川公一副学長は、次のように回想します。

「施設には感染対策のプロがおらず、学長より要請を受けた私が現地に入り、帰国者の支援者の皆様に、防護服の着脱や帰国者の健康管理などの支援を行いました。しかし、滞在初日に横浜港でダイヤモンド・プリンセス号の集団感染が発生します。情報が入った時点ですでに船内は混乱した状態であり、宿泊施設の継続的な支援は他の長崎大学チームのメンバーに引き継ぎ、学長の許可を得て、ダイヤモンド・プリンセス号へ乗り込み、支援を行いました」。

ダイヤモンド・プリンセス号の教訓も記憶に新しい2020年4月。長崎港でコスタ・アトランティカ号の集団感染が発生。すべての乗員にLAMP法を用いた新型コロナウイルスの検査を行い、その総数は4日間で622人に上りました。当時、これだけの短期間に、これだけ多くの検体を検査できたのは、特筆すべきことでした。
泉川副学長は続けます。

「河野学長の強力なリーダーシップの下、基礎研究のエキスパートである熱研の先生方や医学部、大学病院が連携を取りながら検査、診断、そして治療に取り組みました。感染の恐怖と闘いながらの活動は時に厳しい場面もありましたが、陽性者が増えるたびに多くの症例を診ることにつながり、その結果、自信もついていきました。帰国者支援からコスタ・アトランティカ号の対応が終了するまで約4カ月間。感染症の専門家を多く擁する、本学の強みが発揮された濃密な期間だったと思います。一方、その後、現在にいたるまで、治療薬やワクチンの開発については、諸外国から大幅に遅れを取っていると痛感しました。開発には莫大な予算と時間、そして多くの人材を要します。このような実状を国や社会にしっかりフィードバックし、本学が舵取りの一員になれるよう努力していくことが今後の課題ではないでしょうか」。

[インタビュー]

人材養成の観点から
感染症対策を考える

西田教行
西田 教行卓越教授
生命医科学域

新型コロナウイルスの拡大前から、新たなウイルスの発生と蔓延を予見していた本学の研究者たち。
彼らは、世界のリーダーとなれる感染症の研究者や、大学が持つ学術的エビデンスを高いレベルで社会に還元できる専門家の育成を、重要なミッションと位置付けていました。

取り組みの一歩となったのが、2012年にスタートした「熱帯病・新興感染症制御グローバルリーダー育成プログラム(TECD)」。
感染症問題を俯瞰的に捉えられる、新しいリーダーの育成を目指して、新たな大学院博士課程教育の意欲的な取り組みを開始しました。
本プログラムを基盤に、2019年にはロンドン大学衛生・熱帯医学大学院とのパートナーシップによるジョイントディグリー専攻が「卓越大学院プログラム」に採択されました。
さらに2022年10月には「プラネタリーヘルス学環」の設置に至り、研究活動と並行して政策立案のプロフェショナル人材育成の場が整えられてきました。

「本学に感染症の専門家を育てる場が増えている理由は、より多くの多様な人材が求められているからです」。
そう語るのは、これまでTECDのカリキュラム作成など、教育プログラムの運営に携わってきた西田教行教授。
新たな人材育成の必要性について次のように話します。

「例えば、新型コロナウイルスの対応を振り返った時、人流や輸送環境が制限される中、全世界の人々に治療薬やワクチンを供給するためには、どのような手段が必要だったのでしょうか。また、差別をなくすためには教育環境の充実が図られるべきでしょう。ほかにも様々な課題が浮き彫りになりましたが、今後さらに強固な体制で新たなウイルスの発生に備えるためには、社会システムの問題点を分析し、科学的エビデンスと専門的な考えに基づいた政策を推し進められる、実行力を伴った専門家の育成が不可欠です。感染症研究のトップランナーである本学には、基礎研究のみならずそのような人材育成を期待されているし、実行できる力があるのです」。

※プラネタリーヘルス学環:学術的知見を効果的に実社会に結びつけることができる、博士レベルの実務家養成を目的とした大学院。
[TOPICS]

高度安全
実験(BSL-4)施設

人類を守る高度な感染症研究拠点

2021年7月、長崎大学坂本キャンパス内に竣工し、本格稼働に向けて準備を進めている高度安全実験(BSL-4)施設。BSLとは、実験施設の安全機能のレベルを意味し、BSL-4施設は、エボラウイルス病やラッサ熱など、致死率が高く、有効な予防法や治療法がない感染症の原因となる病原体の取り扱いに必要な、高度な安全機能を備えた施設です。
交通網の発達やグローバル化により、短期間で感染症が世界中に蔓延する危険性が現実のものとなりました。
現在、世界20数カ国に60施設以上のBSL-4施設が存在する中、我が国では国立感染症研究所が唯一の実験施設であり、診断と治療目的にのみ使用が認められている状況です。
2022年4月に、BSL-4施設を管理運営し研究を推進する附置研究所として長崎大学高度感染症研究センターが設置されました。
本施設の本格稼働を機に、長崎大学と日本全国の研究者の協力のもと、より高度な感染症研究が可能になります。
未知の感染症の脅威から人類を守るための、大きな一歩を踏み出そうとしています。

Vol.82

2023年7月1日発行

「大学と地域の垣根を取り払う」をコンセプトに、長崎大学の思いや姿、描く未来などを共有し、
多くの皆さまに長崎大学へ関心をお寄せいただけるような広報紙を目指します。