
長崎大学の使命
長崎大学は医科大学として世界で唯一、被爆を経験した歴史を継承する大学です。だからこそ「地球の平和を支える科学を創造すること」を理念に掲げ、原爆後障害医療研究所、核兵器廃絶研究センター、グローバルリスク研究センターなどを基盤として、人々が平和に共存する世界を実現するという積極的な意志の下に教育・研究を行ってきました。
しかし、戦争や原爆を体験した世代の高齢化は進み、被爆や戦争の体験の継承が切実な課題になっています。そして世界各地で戦争が起き、核兵器使用の脅威も高まっているのが実状です。
そこで、長崎大学は戦後・被爆80年となる2025年を「継承と行動」の年と位置付け、幅広い世代を巻き込んだ活動を展開することとしました。「核なき世界の実現」「長崎を最後の被爆地に」という使命の完遂に少しでも近づくべく、未来に向けて何をすべきか考え、行動してまいります。
永安 武
長崎大学は医科大学として世界で唯一、被爆を経験した歴史を継承する大学です。だからこそ「地球の平和を支える科学を創造すること」を理念に掲げ、原爆後障害医療研究所、核兵器廃絶研究センター、グローバルリスク研究センターなどを基盤として、人々が平和に共存する世界を実現するという積極的な意志の下に教育・研究を行ってきました。
しかし、戦争や原爆を体験した世代の高齢化は進み、被爆や戦争の体験の継承が切実な課題になっています。そして世界各地で戦争が起き、核兵器使用の脅威も高まっているのが実状です。
そこで、長崎大学は戦後・被爆80年となる2025年を「継承と行動」の年と位置付け、幅広い世代を巻き込んだ活動を展開することとしました。「核なき世界の実現」「長崎を最後の被爆地に」という使命の完遂に少しでも近づくべく、未来に向けて何をすべきか考え、行動してまいります。
永安 武

(プログラム詳細は長崎大学HPよりご確認下さい)
会場/長崎スタジアムシティ PEACE STADIUM Connected by SoftBank 、HAPPINESS ARENA(長崎市)
昨年広島で行われた、長崎大学サッカー部と広島大学サッカー部による「平和親善試合Peace Match」。
被爆80年の今年は、広島大学を長崎に招いて開催されることが決定しました。
被爆地にある大学の学生たちが、スポーツを通して考える平和。
そこから見えてくる、これからの継承の在り方とは?
大会の発起人でもある、長崎大学サッカー部監督の田中朴通さんと新キャプテンの近藤寛大さんに今大会に臨む想いを聞きました。
昨年は練習試合とも公式戦とも違う雰囲気の中で、試合に臨むことができました。格上を相手に自分たちの弱さを痛感させられる結果でしたが、それ以上にお互いが初めての平和親善試合に意味を見出すことができたと思います。

田中 朴通 さん長崎大学教育学部出身。長崎南山中学校・高等学校で教鞭をとる傍ら、生徒会主任として同校の平和学習も担当。長崎大学サッカー部の監督には大学4年時に就任し、今年9年目を迎えます。
アマチュアスポーツの力で新しい継承のアクションを起こす
昨年は練習試合とも公式戦とも違う雰囲気の中で、試合に臨むことができました。格上を相手に自分たちの弱さを痛感させられる結果でしたが、それ以上にお互いが初めての平和親善試合に意味を見出すことができたと思います。

田中 朴通 さん長崎大学教育学部出身。長崎南山中学校・高等学校で教鞭をとる傍ら、生徒会主任として同校の平和学習も担当。長崎大学サッカー部の監督には大学4年時に就任し、今年9年目を迎えます。
長崎南山中学校・高等学校の教員でもある田中監督は、学校では平和教育を担当しています。
「被爆者の記憶や想いを辿るのが困難になる時代が近づいているのではないか」。
そう考えると同時に、これからの平和活動や継承の在り方について模索しています。
「長崎大学の学生が原爆の脅威に触れ、平和について考える機会が少ないとも感じていました。
若い彼らにとって『平和』は、概念を掴むのが難しい答えの見つからないテーマです。
その一方で、自分たちの足元を見つめてみると、長崎大学があるのはかつて兵器工場だった場所でもあり、今ここで学んでいる一人として、平和とは何か継承の在り方を見つめなおすことはとても有意義だと思います」。
スポーツを通じて、平和への想いを表現する場を創造したい。
昨年、田中監督の提案を受けた部員たち、そして広島大学サッカー部の上泉康樹監督の賛同も得て、第1回目の平和親善試合Peace Matchが実現しました。
試合前には、本学サッカー部の当時のキャプテンの素案をもとに、広島大学のキャプテンと共同で平和宣言文を作成。
また、本学核兵器廃絶研究センター(RECNA)の樋川和子教授や田中監督の事前講義など、平和に関して理解を深めたうえで試合に臨んだそうです。
「非核や不拡散など、平和問題にはさまざまな観点がありますが、事前学習を通じて“当たり前の日常が当たり前ではない”ということに気づかされた、彼らなりの平和宣言文になったと思います。
私たちにできるのは、スポーツの力で他者とつながりを持ち、そのつながりを大事にしていくことです。
ゆくゆくは海外の大学など世界中に輪を広げて、すそ野を広げていきたいですね。
それこそが、アマチュアスポーツの世界に身を置く私たちだからこそ実現できる、異文化交流としての平和活動だと思います」。

8月20日、長崎スタジアムシティ ピーススタジアムで開催される第2回目の平和親善試合Peace Match。
昨年以上の盛り上がりが期待される中、田中監督もサッカー部の皆さんも練習や準備に余念がありません。
「平和について共に学び、さらに親睦を深めていきたいですね。小学生や中学生、高校生、仕事終わりのお父さん、お母さん、観光客、スポンサーの皆さんなど、大勢の観客でスタジアムをいっぱいにしたいです。多くの人に足を運んでいただけるイベントにしますので、ぜひ注目してください」。
他の部の皆さんと一緒に、長崎大学として平和を発信する一日にします。

近藤 寛大 さん
(工学部4年)
一生に一度の経験を実りあるものに
他の部の皆さんと一緒に、長崎大学として平和を発信する一日にします。

近藤 寛大 さん
(工学部4年)
戦争や原爆を体験していない若い世代が、共にピッチに立ち平和を発信するPeace Match。チームを率いるキャプテンの近藤さんは福岡県出身。
「小学生の頃に修学旅行で長崎の原爆資料館を訪れたきり、中学と高校では戦争や原爆について耳にしたことはあっても、深く考えたことはなかった」と話します。
そんな中、昨年参加したPeace Match開催前の事前学習は、印象に残る経験になりました。
「講義を受けた後にみんなで核兵器について議論しました。自分と同じように核保有は良くないと考える人がいる一方で、抑止力になると考えている人もいました。僕自身の考えが変わる訳ではありませんが、Peace Matchがなければ核兵器という重いテーマについて意見を共有する機会もなかったと思います」。
今年の事前学習には広島大学の皆さんが参加予定。
近藤さんは「迎える立場として、僕たちもさらに学びを深めたい。皆さんと平和について、語り合う時間が持てるといいですね」と抱負を語ります。
大会に向けて楽しみにしているのは、どのようなことでしょうか。
「やはりピーススタジアムで試合ができる、それが一番楽しみです。一生に一度しかない貴重な経験になると思います。昨年より部員数は少ないのですが、一人ひとりのつながりが深まるようなプレーを意識して練習に取り組んでいます。そして今年こそは絶対に勝ちます!フェアプレーを心掛けながら、観客の皆さんに楽しんでいただけるゲームにします」。
パフォーマンスのテーマは“愛と平和”。6メートル×3.5メートルほどの作品を書き上げる予定です。

林田 響さん
(教育学部3年)
感動と気づきを届けるパフォーマンス
パフォーマンスのテーマは“愛と平和”。6メートル×3.5メートルほどの作品を書き上げる予定です。

林田 響さん
(教育学部3年)
「ながさきピース文化祭(第40回国民文化祭)」の応援事業として開催するPeace Match。学内外で活躍する本学の書道部と龍踊部が、イベントに華を添える予定です。彼らは、どのようなメッセージを発信してくれるのでしょうか。
『被爆80周年記念誌(長崎原爆被災者協議会発行)』の表紙の文字も担当した、書道部の林田さんに抱負を聞きました。
「文字を通して何かを表現する時、私たちは学びを深める時間を大切にしています。事前に原爆資料館を訪ね、そこで感じた気持ちを表紙の文字にしたように、Peace Matchに参加することが決まってからも、みんなで平和について考える時間を持ちました。部員の中には中国、マレーシア、韓国、オランダの留学生もいます。国籍や宗教が異なる一人ひとりが意見を出し合い、平和とは何か多様な角度から考える。そうすることで嘘のない文字を書けると思っています。Peace Matchでは、私たち大学生が考える平和や未来への希望、そして何事にも屈しない強い想いを筆先から伝えます。ここから歴史が変わる、新しい時代が始まる。そんな力強いパフォーマンスを披露します」。
Peace Match参加予定サークル
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全学書道部 -
全学男子バスケットボール部・全学女子バスケットボール部 長崎大学サッカー部 長崎大学龍踊部
Projects被爆80年 長崎大学
「継承と行動」プロジェクト
期間/2025年通年
本学核兵器廃絶研究センター(RECNA)は、被爆80年におけるキーワードとして「対話」を選び、ウェブサイト「対話プロジェクト」を開設しました。ぜひご覧下さい。
“言葉ならざる声”をつなぐ被爆遺構
本学では、被爆資料の収集および保存と検証活動が行われています。

特定准教授
爆心地から500~700メートルの距離に位置する坂本(医学部・歯学部)キャンパスには、かつて長崎医科大学(長崎大学の前身のひとつ)の基礎キャンパスと臨床キャンパス(現在の長崎大学病院)が置かれ、多くの優秀な人材が学んでいました。
被爆から80年。坂本キャンパスに残る被爆遺構や保存資料から、当時の凄惨な状況や原爆の脅威が見えてきます。
長崎県立大学、活水高等学校等でも非常勤講師として核や原爆の問題について講義を行う。
【拡大した図】カーソルを合わせるとよりズームでご覧いただけます

米国AFIP返還資料 NG142~NG144
1945年10月中旬 撮影 林 重男
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記念碑と銘板
坂本キャンパスの中庭には、長崎医科大学の教職員や看護婦、学生など、原爆死没者を悼む記念碑と銘板が建立されています。現在判明している死没者数は898人。木造校舎が多く、特に被害が甚大だった基礎キャンパスにいた教職員と学生が犠牲者の大半を占めます。戦況が悪化する中、一人でも多くの軍医を戦地に送り出すために、通常は夏休みであった時期にも関わらず講義が行われていました。
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ゲストハウス(旧配電室)
爆風と熱線によって一瞬で焼け野原になった基礎キャンパス。被爆当時、配電室として使われていた建物は、数少ない鉄筋コンクリート造りで焼失や倒壊を免れました。原爆が投下された直後は、ほかにもいくつかの鉄筋コンクリートの建物が残っていましたが、現在残るのはこの一棟のみです。
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旧正門の門柱
坂本キャンパスには、「長崎市被爆建造物等の取り扱い基準」のAランクに登録された被爆遺構が2カ所あります。1カ所はこの『長崎医科大学正門の傾いた門柱』。2本の外門柱のうち、原爆の爆風で大きく傾いた向かって左側の門柱がそれです。トラックがぶつかったとしても倒れそうにない、太く頑丈な門柱を一瞬で浮き上がらせるほどの凄まじい爆風だったのです。また、爆風で倒壊した2本の内門柱(もともとの鉄製の扉と電灯は戦時中の金属供出によって撤去されていた)は、残った外門柱の近くに横置き展示してあります。
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2人の学長の胸像
病院で被爆し重傷を負った角尾晋学長は、調来助教授らの手当てを受けながら、8月22日に息を引き取りました。ほかにも救護活動にあたるはずだった多くの人材が命を落とし、事前に編成されていた11の医療隊のうち、調教授の第6医療隊と永井隆博士の第11医療隊しか活動できませんでした。
角尾学長亡き後学長に就任し、大学の再建に力を注いだのが古屋野宏平氏。被爆直前の7月、市街地から田園風景の広がる城山地区へ疎開したことで結果として爆心地の近くへ寄ってしまい、自宅にいた妻を原爆で失います。そうした中、焼け野原になった大学で懸命に救護活動にあたり、その最中に敗戦の報せを聞きました。
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旧通用門の門柱と基礎
新興善国民学校(現在の長崎市立図書館)や大村海軍病院などでの救護活動が続く中、焼け跡になった基礎キャンパスは、たくさんの遺体が放置されたまま、住む家をなくした人々が雨露をしのぐ場所になっていました。しかし、米軍の命令によって、1945年10月頃から徐々に整地が進められ、多くの遺構が地中に埋められたのかもしれません。
2024年1月、『旧通用門の門柱と基礎』が、敷地内ののり面の工事中に発見され、旧正門の門柱と同様に原爆の威力を伝える遺構として、新たに「長崎市被爆建造物等の取り扱い基準」のAランクに登録されました。
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グビロが丘
戦後に長崎へ復員して来た医学生の中に、巡回診療隊を結成した人たちがいました。看護婦とともに1945年9月末から近辺を回って、被爆者の治療にあたった彼ら。医師資格を持たない医学生が多かったため1カ月弱で解散してしまいますが、その間、多くの傷ついた人々を救ったと言われています。彼らは、「グビロが丘」と呼ばれる坂本キャンパスの裏山に、友人たちの鎮魂を目的に杉の木で作った簡素な慰霊塔を建てました。のちに、倒壊した旧大講堂の礎石を使った慰霊碑が完成しました。
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キュンストレーキ
長崎大学附属図書館医学分館では、永井隆博士による「原子爆弾救護報告」や調来助教授らによる「原子爆弾災害調査票」、「遺骨引渡一覧表」など、原爆関連の貴重な資料を所蔵しています。
キュンストレーキ(人体解剖紙製模型)は、本学の始まりとなった西洋医学の伝習の中で人体の仕組みを学ぶ教材として輸入され使われたもので、後に解剖学教室の標本室で保管されていました。原爆投下直前に佐藤純一郎助教授(当時)が、戦災から貴重資料を守るため、鉄筋コンクリート造の図書館書庫(2階)へ移動させたことで、模型の右半身だけが残ります。書庫の図書・雑誌は焼失し、1945年5月ごろに佐賀県鹿島に疎開させていた古医書などごく一部の資料が残されただけでした。
現在キュンストレーキは、戦後80年を経て損壊の恐れがあるため、X線検査を用いるなど保存に向けた検証が急がれます。
展示場所:附属図書館医学分館 -
薬学専門部防空壕跡
医学専門部と薬学専門部の二つの附属組織を持っていた長崎医科大学。射的場だったこの場所では、原爆が投下された時、薬学専門部の学生29名が防空壕を作る作業に従事していました。壕は長さ約10メートル、高さ約1.5メートルの複数のトンネルが内部でつながっており、反対側に逃げられる構造になっていたようです。基礎キャンパスで確認された生存者は、たまたまこの防空壕の奥にいた数人の学生のみでした。ここにもグビロが丘と同様に、旧大講堂の礎石でできた慰霊碑が建っています。
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西森一正氏の血染めの白衣
長崎医科大学の4年生だった西森一正氏は、臨床キャンパス(附属病院)の皮膚泌尿器科外来で臨床研修中に被爆しました。この白衣は、その時に身に着けていたものです。診察室は爆心の反対側にあったため命拾いしましたが、付着した血痕から多量のガラス片を浴びたことが分かります。また、背中のあたりに血痕が多く見られるのは、窓を背に立っていたからでしょう。
西森氏は被爆3日後の8月12日に自身の無事を知らせるため、下宿先の市内伊良林から高知にいる父親にハガキを出しました。検閲にかかる箇所は伏字にした上で、軽傷であることや9月末に陸軍軍医校に入校予定であることなどが綴られています。
- 展示場所:
- 長崎大学医学ミュージアム原爆医学資料展示室(見学可)
- 開館時間:
- 9時~17時
- 休館日:
- 土日、祝日(7・8月は開館)、12/29~1/3
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運動場通用門跡
戦時下では、男子医学生も医師として出征しなければならず、運動場は軍事教練の場になっていました。
出張先の東京から長崎に戻る途中、広島の惨禍を目撃した角尾学長は8月8日、この運動場に教職員と学生を集めて警戒を促しました。また、急遽教授会も開き、10日から全ての講義を中止することが決まっていたそうです。
運動場の脇にひっそり佇む旧通用門は、原爆により片方の門柱が倒壊。右側の門柱のみ現存しており、被爆遺構として保存されています。当時の大学は、現在のように気軽に入ることができる場所ではなかったのでしょう。解剖学の講義中に爆死した小野直治助教授は、いつも本を読みながらこの門が開くのを待っていたそうです。
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さまざまな苦難を乗り越え、現地に医学部が再建されました。

長崎大学の貴重な歴史資料を後世へクラウドファンディングにご協力願います
本学には、このように被爆の実相を物語る貴重な資料が数多く所蔵されていますが、年月の経過とともに劣化が進んでいます。
これらの資料を適切に修復・保存し、未来の世代へと継承するため、クラウドファンディングを通じて広く支援を募ることといたしました。
集まった資金は、専門家による調査・修復作業、保存環境の整備、展示・公開のための設備導入などに充てられます。
本プロジェクト達成に向けて、皆さまのご支援をお願いいたします。
- ❸❺ 旧正門と旧通用門の門柱
- ❼ キュンストレーキ(人体解剖紙製模型)
- ❾ 西森一正氏の血染めの白衣
- ●実施時期:
- 実施中~2025年8月22日(金)
- ●目標金額:
- 800万円(各資料の修復・保存に必要な費用を基に設定)
- ●実施方法:
- クラウドファンディングプラットフォーム「READYFOR」を通じて実施
Vol.88
2025年7月1日発行「人を結ぶ 地域と繋ぐ」をコンセプトに、長崎大学の思いや姿、描く未来などを共有し、
多くの皆様に長崎大学へ関心をお寄せいただけるような広報紙を目指します。