Libraries
貴重資料と
キーパーソンたち

かつて国内外の要人や専門家が集う、
知の拠点だった長崎の街には、初めて見る物やコトが集まってきました。
そしてこの街で、実学を主として始まった本学にも、
たくさんの貴重資料が、今も大切に保管されています。
折々に集められ、時には不思議なめぐり合わせによって入手された資料の数々。
今回はその中から、学内の3つの図書館を代表する貴重資料と、
キーパーソンをご紹介します。

貴重資料とキーパーソンたち

かつて国内外の要人や専門家が集う、 知の拠点だった長崎の街には、初めて見る物やコトが集まってきました。
そしてこの街で、実学を主として始まった本学にも、 たくさんの貴重資料が、今も大切に保管されています。
折々に集められ、時には不思議なめぐり合わせによって入手された資料の数々。
今回はその中から、学内の3つの図書館を代表する貴重資料と、 キーパーソンをご紹介します。

2024.03.01 #医学部
チダイ
(長谷川雪香 画)
イシガニ
(萩原魚仙 画)
カエルアンコウ
(小田紫星 画)
アカヤガラ
(萩原魚仙 画)
ホソトビウオ
(小田紫星 画)
中央図書館[文教キャンパス]所蔵

グラバー図譜〈日本西部及び南部魚類図譜〉

※見学はできません。
図書館ホームページで閲覧できます

長崎に留められたのは
偶然か必然か

キーパーソン
渋沢敬三
日本銀行総裁や大蔵大臣など歴任し、経済人として活躍する一方で、民俗学や漁業史の研究など文化活動にも力を注ぎました。(渋沢敬三肖像/ウィキメディアより転載)

まるでCGのように精密に描かれた魚たち。
「日本西部及び南部魚類図譜」(通称:グラバー図譜)は、トーマス・ブレーク・グラバーの息子・倉場富三郎が、明治末から昭和初期にかけて約25年にわたり、長崎に水揚げされた魚類を絵師たちに描かせ作成した魚類図譜です。
一時、長崎を離れたこの図譜は、めぐりめぐって本学へ。
どのような経緯があったのでしょうか。

1941年、日本民族学会創始者で魚類学者だった渋沢敬三(渋沢栄一の孫)は、南山手9番地の倉場邸を訪ね、図譜の閲覧をしました。
その後、倉場は1945年8月に自ら命を絶ち、遺された図譜は倉場の遺言を託された三菱重工長崎造船所により東京の渋沢の元へ。
渋沢は保管場所について検討した時の心境を、このように綴っています。

~倉場さんが一生おられかつ愛しておられた長崎市にこの魚譜(図譜のこと)を永久に残すのが、同氏の素志にも合致するであろうし~。

早速、長崎県知事を訪ねるも不在。
たまたま教育長と話をしていた時に居合わせたのが、高瀬清長崎大学長(当時)でした。
事情を知った高瀬学長が、設立して間もない水産学部へ寄贈を願い出たところ、図譜の所蔵地を当時同学部の所在地だった佐世保市ではなく、長崎市に限るという条件付きで許可されたのです。
1950年11月に寄贈され、同学部が1961年に現在地に移転するまでの間も、長崎を離れることはなかったと思われます。

倉場の思いを汲んだ渋沢が図譜を長崎に持ち込んだこと、その日たまたま知事が不在だったこと、その場に長崎大学長が偶然居合わせたこと。
思いと偶然が重なり、この図譜は、中央図書館の貴重資料室で保管されることになったのです。

参考資料:『グラバー図譜』(長崎大学水産学部)、『今と昔の長崎に遊ぶ』増﨑英明編著/長崎大学地域文化研究会著(九州大学出版会)、グラバー園ホームページ、『長崎医学同窓会長崎支部だより第2号(1978)』青木義勇著(長崎医学同窓会発行)

中央図書館が所蔵する貴重資料の中でも、唯一無二のものです。データベース上では図以外の部分はカットされていますが、原図では原寸のまま、または大きい魚類は縮尺を書き添えた状態で描かれています。

中央図書館 志波原智美さん(右)、浦さやかさん
キーパーソン
渋沢敬三
日本銀行総裁や大蔵大臣など歴任し、経済人として活躍する一方で、民俗学や漁業史の研究など文化活動にも力を注ぎました。(渋沢敬三肖像/ウィキメディアより転載)
キーパーソン
倉場富三郎
ホーム・リンガー商会に勤め、長崎汽船漁業会社を立ち上げて、日本に初めてトロール船を導入。当時、日本の漁業界に革命を起こした人物と言われています。(倉場富三郎肖像/長崎歴史文化博物館蔵)
図書館こぼれ話
フクロウ館長

中央図書館の入口で入館者を迎えるのはフクロウ館長です。2021年に浜田久之館長より特命を受けて、長崎大学附属図書館の広報特命館長に就任しました。もともと図書館に棲んでいましたが、夜行性のため姿を見た職員はほとんどいませんでした。月2回図書館ブログにて、書評エッセイ「フクロウ館長イチ押しの本」を連載中。

建物の変遷

改修前の中央図書館は、外階段を使って2階から入る構造でした。2012年に耐震・改修工事を行い、現在の形になりました。

改修前
改修後
医学分館[坂本キャンパス]所蔵

キュンストレーキ

※一般の方の見学はできません
被爆前
左上半身あり

金属の支柱に、特殊な紙粘土をかぶせて造形した構造。腹部は観音開きになり内臓模型を収納。各部が取り外せるようになっていました。男性体とされていますが、右半身だけとなった今、性別の手がかりはなく、同種の人体模型よりも小さいことから、基本的な人体構造を学ぶための「無性」の標本であったとも考えられます。

被爆後(現在)
右上半身のみ

焼け焦げた表面には、小さなガラス片が2つほど埋まっています。

左上半身あり

金属の支柱に、特殊な紙粘土をかぶせて造形した構造。腹部は観音開きになり内臓模型を収納。各部が取り外せるようになっていました。男性体とされていますが、右半身だけとなった今、性別の手がかりはなく、同種の人体模型よりも小さいことから、基本的な人体構造を学ぶための「無性」の標本であったとも考えられます。

右上半身のみ

焼け焦げた表面には、小さなガラス片が2つほど埋まっています。

奇跡の陰にある
人物の存在があった

キーパーソン
ポンぺ・ファン・
メールデルフォールト
1857年、第二次海軍伝習の教官としてオランダから長崎に赴任。11月12日、長崎奉行所西役所(旧県庁跡)の一室で、松本良順とその弟子たち12名に医学伝習の講義を開始しました。本学ではこの日を長崎大学医学部創立記念日、近代西洋医学教育発祥の日としています。(ポンペ肖像/中央図書館蔵)

キュンストレーキとは、1825年にフランス人解剖学者のオズーが考案し発表した、人体解剖紙製模型です。
本学の創始者ポンぺ・ファン・メールデルフォールトが輸入し、1860年に日本最初のキュンストレーキとして、パリから到着。解剖が一般的ではなかった時代、人体の仕組みを学ぶ教材としての役目を終えた後は、解剖学教室の標本室で保管されていました。

しかし、第二次世界大戦中の原爆投下直前、何か胸騒ぎがしたのでしょうか。
佐藤純一郎助教授(当時)は、キュンストレーキを、鉄筋コンクリート造の図書館書庫2階へ避難させたのです。
原爆で図書館の事務室や閲覧室は全焼。資料の大部分は焼失しますが、コンクリートに守られたキュンストレーキは焼け残りました。
発見時、左上半身は見つからなかったものの、胴体のほぼ4分の1と片脚、台座は無事で、今もなお自立しています。

国内に現存する同種の人体模型は、福井の2体と金沢の1体を合わせ計4体です。
中でも、佐藤助教授の何かに突き動かされたかのような行動によって今に伝わることになったこの1体は、特別なものと言えるでしょう。

原爆投下時の医科大学で、書庫は病院以外では数少ないコンクリート製でした。先生方が守ったキュンストレーキを、大切に保管していきたいと思います。

医学分館
松田綾さん
キーパーソン
ポンぺ・ファン・
メールデルフォールト
1857年、第二次海軍伝習の教官としてオランダから長崎に赴任。11月12日、長崎奉行所西役所(旧県庁跡)の一室で、松本良順とその弟子たち12名に医学伝習の講義を開始しました。本学ではこの日を長崎大学医学部創立記念日、近代西洋医学教育発祥の日としています。(ポンペ肖像/中央図書館蔵)
キーパーソン
佐藤純一郎
原爆後、佐藤助教授が書庫へ向かうと、1階は一部火が入り足の踏み場もなく、2階は混乱に乗じて盗難に見舞われていました。窓は吹き飛び、書架も倒壊している状況の中からキュンストレーキを救出。自宅や教授室などで保管し、学生運動が激化した頃に安全のため図書館へ移管しました。(昭29長崎医科大学卒業アルバム/医学分館蔵)
医学分館所蔵 初版本(左)
経済学部分館所蔵 献上本(右)
経済学部分館が所蔵しているのは、一般の流通本ではなく献上本。医学分館所蔵の初版本よりもひと回り大きく、装丁が緑色です。
経済学部分館[片淵キャンパス]所蔵

解体新書〈全五巻 献上本〉

※どなたでも見学できます
医学分館所蔵 初版本(左)
経済学部分館所蔵 献上本(右)
経済学部分館が所蔵しているのは、一般の流通本ではなく献上本。医学分館所蔵の初版本よりもひと回り大きく、装丁が緑色です。

序文に記された長崎との
知られざる縁

「阿蘭陀訳官西肥吉雄永章」のサインが入っています。

国内最初の解剖学書として知られる『解体新書』。
経済学部の前身である、長崎高等商業学校の名物教授だった武藤長蔵博士のコレクション「武藤文庫」の一つとして、図書館内の長崎学資料展示室に展示されています。
武藤文庫は小さな図書館を形成できるほど、多種多様な書籍がラインナップされており、博士の興味が多方面に及んでいたことが、この資料の存在からも分かります。

『解体新書』の序文には、「阿蘭陀訳官西肥吉雄永章」の文字を読み取ることができます。
阿蘭陀訳官西肥とは、長崎の阿蘭陀通詞(オランダ語の通訳)を意味し、吉雄永章の別名は耕牛。
最高位の大通詞まで上りつめた人物です。耕牛の弟子で、杉田玄白らとともに『解体新書』の訳者の一人だったのが前野良沢です。
しかし、本には訳者として名前は記載されていません。
翻訳の完成度に納得していなかった前野自身が、発行は時期尚早と記載を拒否したと言われています。
彼の名前は耕牛が書いた序文にのみ登場し、歴史に形を残すことになりました。
様々な思惑が交錯する中、世の中に送り出された『解体新書』。
長崎学資料展示室では、序文が入った第一巻を手に取って閲覧することができます。

長崎とつながりのある第一巻を、ぜひ手に取って見てください。貴重な経験になるでしょう。

経済学部分館
宮脇英俊さん
キーパーソン
吉雄永章(耕牛)
阿蘭陀通詞として活躍した耕牛は蘭方医でもあり、医学、天文、地理の分野など幅広く精通。弟子の数は1000人を超えていたと言われています。また、末息子の権之助は、シーボルトの通訳を務めた人物。ドゥーフハルマの辞書編纂でも有名です。(吉雄耕牛肖像/医学分館蔵)

Vol.84

2024年3月1日発行

「人を結ぶ 地域と繋ぐ」をコンセプトに、長崎大学の思いや姿、描く未来などを共有し、
多くの皆様に長崎大学へ関心をお寄せいただけるような広報紙を目指します。