Research[研究]
本稿は2026年2月19日(木)長崎新聞掲載の寄稿原稿を再編集したものです。
磁器の広まりと五島焼の誕生
私たちは今、「磁器」とよばれる白くて硬いやきものを日常的に使っています。しかし、今では当たり前のように使っている磁器も、昔は誰もが手に入れられるものではなく、限られた人々だけが使うぜいたく品でした。一般の人々が磁器を使えるようになるのは、江戸時代の後期(約250年前)になってからのことでした。磁器がぜいたく品から日用品となり、全国各地に新たな磁器産地が生まれ、五島列島の福江島でも磁器が焼かれるようになりました。それが五島焼です。長崎大学では2016年から島の文化を探るために、この五島焼の考古学的調査を行っています。
海を渡った磁器技術―五島への伝来と窯業の展開
もともと磁器を作る技術は日本にはなく、その源流は朝鮮半島にありました。豊臣秀吉が朝鮮半島を侵略した際に、多くの朝鮮人陶工を連れ帰ったことから伝わったものです。技術は対馬、壱岐、そして九州本土へと海の道を渡って伝えられ、さらに18世紀後半に海を渡って五島へと伝わりました。
五島に技術を伝えたのは、長与焼(長与町)や波佐見焼(波佐見町)、高浜焼(熊本県天草市)の産地から招かれた陶工たちでした。今で言えば、技術者を招いた工場誘致や工場建設のようなものです。五島での磁器の生産は1世紀ほど続きましたが、その後、中止され、窯は崩れ、土の中に埋もれてしまいました。
古地図が語る皿山の姿
磁器を焼いていたころとはすっかり風景が変わってしまっていますが、当時の様子がわかる一枚の古地図が残されており、そこには「皿山」の様子が描かれています。皿山とはやきものを作る窯場のことです。皿山にはやきものを焼く「窯」とともに、工房とみられる建物や、陶工が滞在した家も描かれていました。私たちはこの古地図をもとに発掘調査を始めました。その結果、掘り出された登り窯は数十㍍もある巨大なものでした。さらに、このような登り窯が島内にいくつかあり、煙を吐いていたこともわかりました。こうした巨大な窯によって、誰もが磁器を使えるようになったわけです。しかし、全国の多くの新興の磁器産地と同じように、明治時代に入ると藩の保護が無くなるなどの理由によって消えていきました。

五島焼復活の可能性―失われていない技術
最近、五島焼を復活させようとする試みがあります。実はこの五島焼の技術そのものはなくなってしまったわけではないのです。もともとこの技術は五島で開発されたものではなく、他の島や本土から渡ってきたものです。そのため、五島では使われなくなっただけで、技術を伝えた高浜焼や波佐見焼などの窯場では今でも伝統技術として残っています。
富江の変化と島の未来を知る歴史調査
福江島の富江の調査に取り組んで10年になります。福江島では、富江は福江に次いで大きな町ですが、2軒あったスーパーマーケットは1軒、また1軒と減って今はもうありません。急速に高齢化と過疎化が進んでいます。その一方、最近は古民家を活用したおしゃれなカフェが増えるなど、新しい芽吹きもみられます。国境の島には外来の文化が真っ先に伝わる半面、中央から離れているため、時代の荒波が真っ先に訪れることもしばしばです。島は未来に向けられた舳先であり、明日の長崎、そして未来の日本の姿の縮図でもあります。島の歴史の調査は未来を知るための調査でもあるのです。



